父の思い出
幕張本郷の矯正歯科 幕張ドルフィン歯科の米山です。
当医院では、取外し式の床矯正を実施しています。
5日は、朝から雪交じりの雨が、降っていました。
私は、浜松町にある ひろやまクリニック へ
呼吸器内科の中田先生よりご紹介いただき、受診しました。
昨年、人間ドックで喉のポリープを指摘され、私のアレルギー性の咳との関連性を
調べてもらいました。
ここでも、経鼻内視鏡で診ていただいたのですが、どうやらポリープはなくなったようです。
100人に一人の割合でなくなることもあるようです。
耳鼻科特有の椅子に座り、医療機器を眺めながら私は、父のことを想いました。
実は、今は亡き父も耳鼻科医でした。
幼少のころから、お正月ともなると明治神宮に家族とお参り後、表参道の南国酒家で食事し、
決まって中野坂上にある父の医院へ一泊することが、家族行事でした。
父の医院はとても小さく、看護婦も雇わず一人でやっていたのです。
晩年は、医院も荒れ果てた状態が続き、そんな父を私は反面教師としてみていました。
父の実家は、山梨の身延の旅館です。
父方は4人兄弟で、現在妹の米山ママコさんが存命。
ママコさんは、日本のパントマイムの第一人者でご存知の方もいらっしゃるのでは。
父の母、つまり私の祖母は、105歳まで生き、テレビ出演をしたことがあります。
100歳を超えても、旅館で働いていました。
今でも思い出すのは、身延の旅館で父とママコさんとでこたつに入り、雑談をしていたとき
私は、父に(お父さんは、僕の反面教師だ。医院が汚くこれじゃあ、患者さんが増えないよ)
と言ってしまった。
ママコさんは、それを聞いて、私と父を交互に見ながら肩を落としていました。
今でも後悔しているその光景を、私はひろやまクリニックの診療椅子に座りながら、
昨日のように思い出していました。
父は、大借金をしてまで私を歯学部に導いてくれました。
もちろん、今ではこの職業を誇りに思いますし、自分の医院が荒れた状態になっても、
借金の返済を死ぬまで続けてくれた父のことを思うと、涙が止まりません。
私は、一体父に何をしてあげたのだろうか?
私も今では、2人の息子の父親です。
ゆうたろうはすでに、千葉工科大学に入学が決まっています。
ケイトは、今年幼稚園の入園。
2人の息子には、自分の力で夢をつかんでほしいと思っています。
そのためには、私自身の背中を堂々と見せられるような父親であり続けたい!
そんな決意をして、雪交じりの空に傘を広げ、私は家族の待つ錦糸町へ向かいました。
今は、父の医院は跡形もなく、父の思い出だけが私の胸に残るばかりとなっています。
皆さんにとってのお父さんは、あなたになんと言っているでしょうか?